アスペとゲームと君と僕

アスペの息子とゲーム好きな僕との備忘録。

進学のカタチ1

僕が思い起こすと、高校への進学、大学への進学、そして社会へ出る事。

これらは意識はしていなくても、自分の中にあるものや社会で「想定」されている事って、今は分かりませんが大体は、健常者(僕はあまりこういう言葉で人を区別することが実は大嫌いです。)・・うーん良い言葉が浮かびませんが、つまり奇異でない人達を主眼に置いてシステムが考案されていると思います。

勿論最初からそう感じたわけでなく、昨今見聞きする、社会の中での出来事を見ていると、つくづく「普通に暮らせる」って、なんてすばらしい事か・・・と感じざるを得ませんが・・・。

ちょっと何かが違うと、いちいち「○○ですが大丈夫?」と考えなければいけない。

考えないといけない事が辛いのじゃありません。

みんな同じように生きていて、同じように生まれ苦しみ泣き笑いしているのに、どこまでたっても「○○と僕たちは違う」ということを感じてしまう世の中(というか生活、生きるという営み?)への葛藤が、生まれる事・・・でしょうか、なんかそれが悔しいのです。

 

上手く表現できませんが、子供がアスペルガーと知って、僕は嬉しかった。

何故って、それだけで普通の親子なら子供の事ってわからない・・って悩むところが「アスペルガー症候群の症状はこれ」とある程度の症例が出ていて、それが子供が考えている事と変な話、直結しているからです。

 

またアスペルガー症候群は「薬を飲んだら治る」っていう病気なんかじゃありません。もちろん、コントロールすることを当人が覚え、少しずつ「症状の発現度合い」が変わる事はあるかもしれませんが、それは風邪が治るというような「完治」という次元ではないんです。つまり死ぬまで「変わらない」のです。

考えようによっては、例えが悪いのですけど、不治の病をずーっと抱えて生きているようなイメージでしょうか。

僕は喘息が・・とか、僕はヘルニアで腰痛が・・・と治療に時間がかかり、しかしいつかは完治が望める病気と違い、アスペルガー症候群自閉症は、その人が持っている個性なんです。

 

失われない個性。生まれて死ぬまで神様がくれた「あなたの生き方」。

 

康ちゃんは、僕たちが望んだ小さな小さな、でも大きな輝くダイヤモンドの様に美しく、ほんのちょっとの笑顔で、僕たち夫婦の人生にエネルギーをくれた天使です。

 

さて、今の学校へ通う事がままならぬ状況になり、先ずは心の安定とか気持ちの整理とか色々あるだろうから・・・と、9月ぐらいからずっと登校しないで、家でのんびり過ごしていた康ちゃんですが、さすがに11月になって「今後どうする?」と考えざるを得なくなってきました。高校を変わるにしても通信制に・・と考えていたので、色々制限や条件が見え隠れしてきたからです。

 

その2へ続く。

思いがけない事3

最初の事件で、康ちゃんの中では物凄い罪悪感が渦巻き、クラスから離れて学習する事に抵抗があるかと思いきや、以外にも「大勢の中にいるより、過ごしやすい」という感想を漏らしました。

これに少し問題を感じたため、時を待ってクラス学習へと切り替えたのが、この事件の3週間後。

学校教育の中ではクラスメイトと共に、授業を受けるという条件があるらしく(正確には僕もよく分かっていません。ごめんなさい)、一人で自習のような形では単位が取れないとの事。単位不足はいわゆる赤点となって進級ができなくなります。それを避けるためにクラスに戻し、誤解を解きながらも授業を受けていたのですが、第二の事件で、とうとうクラスメイトにも被害が発生して強いました。

具体的なことは言及できませんが、集団生活の中では問題になってしまう事で、これが切欠で、さらにカウンセリングが必要になり、僕たち夫婦のみならず、本人も一度カウンセリングを受けて、色々知ったり、対策を一緒に考える方が良いだろう・・という結論が出されました。

学校のカウンセラーにも色々話をして、多少すっきりしていた様子もありましたが、また同じ話を病院というところでしなきゃいけない・・・と、何かプレッシャーも感じていたようでしたが、当日は親子で(僕は仕事で付き添えずw)病院へ。

先ずは昼夜逆転を何とかしましょうという事と、学校の対応がとても厳しいのでは?とそちらのカウンセラーからは呟かれました。

 

この診断は、後の学校との電話で報告もしつつ、睡眠導入剤を処方していただき服用して夜睡眠に入りやすい環境を作っていくことを伝えました。

 

ここから、徐々に康ちゃんにも変化がみられるようになっていきました。

思いがけない事2

進学が決まり春休みを経て、康ちゃんは、自宅からそう遠くないけどちょっと自転車で頑張らなきゃいけない高校へ。

入学式は、夫婦そろって参加。

在校生の皆さんと共に式を終え、新しい一年の始まりだなぁ、康ちゃんやったなぁ。

 

僕が高校へ進学したのはかれこれ40年近く前。思い出す事と言えば入学試験の結果を一人で観に行き、高校受験が合格したことを祖父に電話した事。

 

康ちゃんは、確かに昼夜逆転生活をしていたけれど中学を経て高校へ行きたいという思いを持ち、結果的に希望していた高校へ行けたのだから「君は勝ち」と僕は話していました。
どんなことが今まであったとしても、自分の目的は達成したのだから・・・と。
ちょっと極端ですけど、そんな風に食卓でも話していたのですけど、それからわずか1ヶ月後に、思わぬ事件が起きました。

 

進学した学校は、入学後にわかったのですが、少し女子が多いクラスです。それが災いしたような事件でした。思春期にありがちなちょっとした勘違いで起きた事ですが、少し暴力沙汰にもなりかけたために学校側との話し合いで、1週間ほど謹慎ということで家でおとなしくする日々を康ちゃんは過ごすことになりました。

過去に色んな事があって、この謹慎中にも色々思い出すこともあるのかな・・と気にしつつ、この事件後に高校生活カウンセリングに(初めて医療的な視点で康ちゃんの事を話す機会として)行きました。

 

幼いころ、特に2歳児までの行動を思い出しながら話したり、今の状況も説明しつつ僕の思いも伝えました。

 

僕は、小学校の頃から「なんか反応というか、返す言葉がちょっと普通じゃないんじゃない?」と感じる事もあったので、それも伝えたりもしましたが、幼少時の行動を一通り伝えたところ、カウンセラーの回答としては「自閉症の傾向がありますね」という、僕たちにはやや衝撃的な言葉を頂きました。

 

なぜ、衝撃的だったのか。

 

普通の人と違う(そもそも普通の人って何?)という事実を突きつけられたからじゃありません。

 

もし、康ちゃんが独特の特徴をもっているなら、僕は、その事実をちゃんと受け止めたかったのです。ちゃんと受け止めて、わかってあげたうえで、父親として成長を見守りたかった。

そんな奇異な特徴を持つ子供なんだと早く知りたかった。
しかし、その努力もしていなくて、思い込みで康ちゃんを傷つけていたのかもしれない。そんな念で自分を責めました。まさに後悔しかありませんでした。

それまで自分がしてきたシーンが脳を横切ります。

せっかんとして叩いたこともありました。決して自分の行動を肯定したい訳じゃないけれど、それが正しい事と信じていた時期もありました。

僕は、古い考えなのか、しつけの為の痛みを伴う教育には反対しない立場です。痛みはお互いに感じるもの。心も痛いし叩いた手も痛いです。

けれど、そんな表現、康ちゃんには実は通じなかった。

叩いた手は痛いけど、心も痛いんだ。
とは、つまり、心の状態がどうなっているのか、自閉症の康ちゃんには分からないのです。恐らく、通じていなかったに違いありません。言ってる事が分からない。でもとーちゃんは怒ってるから、悪い事を自分はしたんだという認識はある。けれどもその為にどうすればいいのか、どうやって叱られないようにすればいいのか、多分分からなかったんだと思います。だから、繰り返してしまう。

叱られたくない、でも、楽しい事だから始めてしまう。
理性よりも強い本能に気持ちが傾き、そちらに行ってしまう。

自閉症を持った子は、本来僕たちが持っている「行動を司る、コントローラー」が働きにくい子やコントローラーそのものが未熟のまま大きくなってしまう子がいると、カウンセラーから聞きました。


ひとまず、康ちゃんへの理解を深めることが大事。

 

事件後数日して、やや落ち着いた康ちゃんだったのですが、その4ヶ月後、夏休みを経てこの9月末に、またもや事件を起こしてしまうのでした。

 

その3へつづく。

思いがけない事1

そんな昼夜逆転の中学生にも、高校へ行くのか、就職するのか・・・と選択しなくてはいけない時期が来ます。
僕たちは、学校の選択はもちろんの事、将来どうしたいかも全部任せていました。

親は、子供がやりたいことを全面的にバックアップし、道がどれだけ広がっているのかを示してあげなければ・・・。自分が出来る範囲で、子供が精いっぱいやれる状況を作ってあげることが、親の務めだと思っています。

僕はそんなつもりで今までも、これからも接しています。

子の将来を、親が決めるとか、親の希望で子供の選択を変えてしまうというのは、あってはならないと考えています。
勿論、親の言葉は子供にとって、とても大きなものなので出来る限り公平な目で見た感想や意見を伝えねば・・とも思っています。意見というよりもどうすればいいかを、言うべきかなと。
本当は子供から「どうしたらいい?」と質問が来るまで待つべきでしたが、僕らは小・中とあまり待てない親でした。

大学へ行きたいのか、就職なのか、はたまた高校はどこがいいのか。
康ちゃんはそれなりに悩んで、色々資料に目を通していました。

学力としては平均的な子。びっくりするほど特に悪い事もなく、比較的優秀な部分もあり何より受験前の半年ぐらいは、あれだけ勉強しないで昼夜逆転していても、急降下することなく現状維持、教科によっては少し伸びてるところもありました。
それが不思議というか、それが康ちゃんの力なのかな・・と今は思っています。

受験は、僕の頃は私立も公立も1校だったのですが、昨今は2校づつ受けられるようになったのですね。先に受験日が来たのは私立で、家の近所と電車で少しかかるところ。同じ高校を受ける学友達と、時間を合わせて一緒に行くのでもなく、一人が良いというけど不安。「一緒に行けない?」という康ちゃんと、ちょうど受験日が休暇と重なったので、途中までは同行。そうして受けた2校とも合格。

公立高校を選ぶなら、この2校の合格を破棄しなければならないルール。

康ちゃんは、公立に掛けました。
公立の二つのうち、一つは家内の職場からも遠くないので出来ればそちらが受かってほしい。そんな気持ちも僕らにはあったと思います。
少し心配だったのは、やっぱり昼間眠そうなので早く起きて学校へ行く準備が出来るかという事や、面接のときに眠くならないか‥等々。受験日の前日まで昼夜逆転は殆ど変わらず。
この頃は、もう言っても聞かないし、自発的に変わってくれるのを期待しよう・・という気持ちもあって殆ど注意などしませんでした。

卒業式を終え、数日後には受験。その2週間後ぐらいに発表。
試験日はもちろん心配でした。ちゃんと問題に向き合ってるのかな・・とか。最初に受けた公立で面接も何とかこなし、それが良い予習になったらしく次の高校ではソツなくこなせたようでしたが、結果は分かりません。
親子三人で、観に行きました。

番号がありました。

おもわず写真を撮る僕らと、恥ずかしそうにする康ちゃん。
この日は最高の気分で、約束通り、合格後の外食にも出かけ「やったね、康ちゃん凄いじゃない!」と夫婦で褒めちぎりました。

 

その2へつづく。

告解のようなもの3

分からないっていうよりも、自分(家内も含め)と行動基準が違うような感じです。

今課題をしないと明日には今日の分まで積み重なってやることが増える。
そうやって先延ばしにすると、そのうち少ない時間では出来なくなる。それではダメでしょう?
という事が、わかってるのかどうか・・・。

「やらなきゃいけない事は分かってるんだけど、出来ない」

こういう答えが殆どでした。

「どうして?例えばずるい話だけど、答えが書いてあるんだから写したっていいじゃない(まぁ酷いリードですけどw)?兎に角、終わらせないと溜まるんだよ?やることが消えちゃうわけじゃないから、いつかは必ずやらなきゃいけないんだよ?」
そう言い聞かせ、やり始めても長続きしない。

康ちゃんは、そんな手引き(答えを写すというちょっとズルいやりかた)は全くしない子です。答案も、自分が気に入った文字の大きさや「ハネ、ハライ、テン」が書けていないと消しゴムをガンガンつかって書き直し、そうしているうちに疲れてしまうタイプ。問題も、上から順にやっていくのですが、難しい問題があるとそこで分からないと止まってしまい、先に進みません。

「さっと問題を観て、簡単そうなものから答えればいいじゃない」

それを、しない子。
それはそれでポリシーがあるのでしょう。
しかし、理由は頑として言わない。というより理由なんてないのかもしれません。

考査の答案が返ってくると、最後の方にある問題を見て「あ、この問題は分かったんだよな・・・」とつぶやいたり。
要領が悪いのか、そういうことが全部彼には、「ずるい事=悪い事」に映っているようで、けれど、途中を飛ばして簡単な問題から解くのは、別に悪い事じゃないよ、答えれる問題が残ったまま回答返すのって、もったいないでしょ。と諭すも、それが「できない・・」と。

携帯に没頭、DSやWiiに没頭。TVやDVDも観たい。とにかくやりたいことを我慢して勉強(ほとんどは学校から出された毎日の課題を消化する事)は苦手。というかそういう行動をとることが苦手?

世の中には、確かに切羽詰まらないとできない子もいます。

沢山課題をため込んで、ある日堰を切ったように昼夜突貫してやってしまうという子もいますよね。親に頼み込んで、一緒に終わらせるの手伝ってと懇願する子もいると思います。
僕らは、それ(懇願して手伝ってもらうこと)は予め「絶対だめ」と言い聞かせてました。手伝うのは、例えば「調べものしたいからPC貸して」とか「資料を印刷したいから、このデータを印刷して」とか。それ以外自分で何とかしなきゃいけない事は「自分の事だから、自分でやりなさい」を連呼していました。

結局、この一連の僕たちの言葉は、彼にとってとてつもない「大きな壁」になるだけだったのです。

つまり、親に甘えることを遮る壁。泣き言を遮る壁。
自分を理解してくれる一番の両親が作った大きな「自分を理解してもらえる安心感を得るために立ちはだかる厚くて高い壁」になってしまったのです。

中学時代に、運よく1年から3年までをある意味康ちゃんをサポートしてくれる大好きな友達がいました。その子は、康ちゃんの話に付き合い、自分が寝てしまって写せなかった黒板の板写ノートを貸してくれたり、聞いていなかった時にプリントされたものを説明してくれたり。文字通り康ちゃんにとって、無くてはならない相棒でした。

それらは僕から見て、友達に甘えることに他ならないと感じたのですが、きっと当の康ちゃんにとって、すがるほかなかったのでしょう。

それもそのはず・・・。
中学校の3年間は、家では昼夜逆転の生活でした。
朝は眠くて起きられなくて、待ち合わせの時間(小学校から仲良く同伴していた友人と)一緒に行けなくなり、学校の授業中は、寝てしまう。
家に帰ると夕食の時間まで一眠りして、ご飯後に少し机に(この頃は学習机は物置と化し、勉強テーブルが机替わりですが)向かうと、暫くしてゴロンと横になってしまい、そのまま睡眠。お風呂もそこそこに、両親が寝静まるとTVの部屋まで移動して、YouTubeやゲーム、携帯を触って明け方4~5時に寝る・・。

何度かこのリズムから抜け出して欲しくて、叱咤激励を続けましたが、2年の夏休みぐらいから、僕も家内も諦めてしまい、そこからは「なるようになれ・・」と放任に近い形に。

兎に角、叱ると無口になり部屋に閉じこもる。
食事の時も無口で大したことも話さない。うつむき、上目遣いに両親を見て、何かを警戒する態度。学校でのことなどはやっぱり殆ど口にしない。
3ヶ月に1度の学校訪問などでは、僕らが先生に呼び止められ生活習慣を改める様に指導を受けるような感じでした。

多分、僕たち夫婦も康ちゃんとの距離を本当に縮めようとしていたのか、この子はもうこういう子だから、どうしようもないや・・と考えて文字通り心の中まで捨ててしまったのかもしれません。

それほどまでに、言う事を聞かない子。
兎に角、アドバイス通りに行動しない子でした。
とーちゃんやかーちゃんが言う事の十分の1も聞かず(文字通りしかりつけた言葉も聞いてないぐらい)親がいう事すら忘れる子でした。

「この前話したでしょ?」

「なんだっけ?」

という調子です。

僕らは、子供の未来も考えて、このままじゃ大変なことになる。例えば昼夜逆転した生活に慣れてしまったら、社会に出て苦労するのはこの子・・。その思いが頭をよぎるばかりで、ある時はなだめ、ある時は話し合いながらも兎に角、生活のリズムを作る事を諭しました。

この話し合いや苦労してきた叱咤激励の日々は、今となっては、全く康ちゃんにとって逆効果どころか、ますます不安と自分の殻に閉じこもるように仕向けていたんだな・・と感じるばかりです。

告解のようなもの2

小学校へ入り、集団行動をするようになって最初の違和感を覚えたに違いないと思います。僕たち夫婦は普通に考えていたのですが、康ちゃんにとって小学校は、きっと異世界だったのでしょう。

大体の子供たちが先生の言いつけを守りノートなどを自主的にとり、その場の環境になじもうとするのでしょうけれど、康ちゃんはそれがとても難しそうでした。

学校から呼び出されることは有りませんでしたが、面談の際は1年生の担任からは中々の御言葉を頂き、夫婦でうなだれることも。

 

2年生になって担任が変わり、キチっとしたがる先生ではなく児童の行動を観察する考えの方で、この頃か、1年生の頃だかいまだにわからないのですが、気に入らない事があると、康ちゃんは授業を抜け出してグラウンドで座ってたり時間つぶしをしていたようです。

そうやって自分を納得させていたのかもしれません。

学校の先生方には結構これが有名な出来事になっているらしかったのですが、2年生では、それを責められることもなく、自由にさせてもらっていたようで、そんな具合で低学年は徐々に学校になじんだようでした。

3・4年生になり色んな発表会も一生懸命ついていって頑張っているようでした。

しかし5年生になるころ、同居していた両親から衝撃的な言葉を聴くことになります。

 

「僕って、死んだ方が良いのかな」

 

小学校の康ちゃんから、直接聞いた事がない僕たちはびっくりしました。

そもそも、康ちゃんは学校での出来事を殆ど言わない子です。
今日何があったよ、だれだれ君とこんな話をした、学校の先生が面白かった、なんて会話は殆ど皆無です。
僕たちが「今日学校どうだった?」と聞いても「忘れた」という返事か「覚えてない」という返事が多く、僕はこの頃から何か違和感を感じつつ、結局どのような教育機関へも医療機関へも行くことなく過ぎていきました。

先のことばは、母が聴いて抱きしめて慰めたと聞いたのは、5年生の1/2卒業式前後のことです。
10歳になり、その頃の小学校では二十歳の半分の年齢を過ぎた事をお祝いする行事を全校(5年生全クラス)で展開していました。4年・5年の先生はとても楽しい先生で、康ちゃんも好きになった先生でした。
この先生は冗談が好きで、脱線もするがキチっとしたことは諭す。いわゆる飴と鞭の使い方も上手く児童にも人気(家内もお気に入りw)の先生でした。発表会ではダンスや替え歌等で盛り上げて頂き、そんなクラスの行事が、康ちゃんにも楽しそうに思えました。

6年生、運動会、クラス発表、そして卒業式。

「死んだ方が」なんて言っていた康ちゃんがまるで生まれ変わったように明るく、楽しそうな学校生活をしているようでした。

しかし相変わらず学校の事はあまり話さず、宿題を片付けるのは遅め。でも土日のリクレーションのために毎日何とか頑張って過ごしてきました。
この頃の康ちゃんは、学校で出された宿題は、たいてい週末までため込んでしまうタイプ。夏休みや冬休みの課題は、その翌学期になってやっと手が付けられて2か月後になんとか片付くくらいののんびり屋。のんびりなのか、それ以上できないのか、当時の僕らには分かりませんでした。

 

「宿題やってなきゃダメ。日曜遊びたかったら土曜までに頑張ってやる」

「決して勉強が出来てほしいなんて思っていない。せめて宿題ぐらいはちゃんとやって欲しい」

が僕らの口癖のようになっていました。

どうして宿題をしないのか、宿題を忘れるとどうなるのか、先生に叱られる?とーちゃん(僕)に叱られる?やってあると喜んでくれ、遊んでくれる。この方程式で分かってくれると思い、ある時は手を出したり厳しく当たってきたように思います。

しかし、当時の僕たちから見た、康ちゃんに対する見立ては、兎に角、失敗から学ばない。
どれだけ言っても、わかってるのかすら分からない。
行動の基準となるものが何か分からない。

叱られたくないなら、やればいいのにやらない。

遊んであげると、そのままになって、宿題をやらなくなる。

僕は、康ちゃんのこんな行動を、遊びたいから兎に角ごまかして、先延ばしにし、最後はやれなくなって諦めるというちょっとずる賢い子の行動とみていました。

二言目には「頑張ればちゃんとやれるのに、どうしてできない(やらない)の?」を連発していたと思います。

すると決まって「集中できないもん。TVが気になるし、ゲームもやりたい」という回答。

「やるなって言ってないよ。学校から帰ってから1時間でもやって終わらせたらゲームすればいいじゃない、先にゲームするの、どうして我慢できないの?」

我が家には、IT機器がいっぱいあります。僕の趣味がPCやゲームだったので、沢山あります。4年生から携帯を触る事を覚え、外食やショッピングに行くと「携帯かして」と妻にねだり、一度貸すと家に戻っても手放しません。

我が家の携帯ルールも決めて、本人もサインしたお約束状もありますが、全く効果が無く、指さして叱る事も減りませんでした。

取り上げると拗ねて自室に閉じこもるばかり。

 

そんなこんなでしたが、中学に上がって徐々に「なんで?」という疑問符というか、康ちゃんの行動がさっぱり分からなくなるのでした。

 

3に続きます。

告解のようなもの1

僕は普通のサラリーマンです。

特に取り柄と言ったら笑うと良い顔に見えるらしいぐらい。苦労しているようにも見えず、年齢相応な見かけではない(いまだ年齢が分からない男を自称他称含めて多い)傍目ではおしゃべりな口で損をする、くそ真面目過ぎて冗談が通じない、強情なオヤジだそうでw

普通に結婚し、普通に家庭を持って、独身の頃はいろいろな趣味を楽しみましたがそれなりに落ち着いて、まぁ子供も2~3人いて楽しい毎日を夢見ていて、今でいうリア充に近かったと思います。

長女が生まれた翌年、自分が長男ですから同居しなきゃダメでしょ、と二世帯住宅を建て、それから長男も生まれ仕事も色々迷いながらペースが分かってきて「ま、この仕事で一生過ごすかのぅ」なんて思っていました。

 

ところが、翌年から2000年だという年末の12月に思いもよらない事が起きました。

木造2階建ての自宅と、長男長女を失うという事件が起きたのです。

 

その6年後には、20年勤めていた会社が倒産。

 

倒産の数年前に、康ちゃんが生まれました。僕たち夫婦には願ってもいない子供です。家内はできたと分かるまでは、子供は要らないと言い張っていましたけど・・。そういう意味で僕は、我儘をいってしまったかなと今でも後悔しています。

 

生まれる前の半月は、結構寂しかったことを覚えています。出産の為に里帰りしていたからですが、その時に「思いっきり手がかかる子でも良いや。早く会いたいな」と日記に書いたことを、今も忘れません。

人生っていうのは、不思議なものです。

 

また、当時僕は色々心が揺れていて、色んな人にあったり話を聴いたりしていました。子供を失った事と、新たに子供に恵まれること、それによって夫婦間がちょっとぎくしゃくしてきている事等々。倒産した後も、結構すさんでいました。

 

それでも、兎に角、無事に育ってほしい。そして、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいけなかった、小学校から先の世界を知って色んなものを吸収して欲しいなとか、僕や家内もいろんな話をして、沢山の思い出を作ろう・・・と考えていました。

 

保育園とか小学校前の出来事には、それほど目くじらを立てることもありませんでした。手がかかる子という印象はあまりなく、むしろダダもこねないし、物を欲しがらないし兎に角おとなしいイメージでした。けど僕がその頃やっていたカードゲームやミニカーを並べたがり、整列させることが好きでした。きちっと並んでいないと怒るし動かすと怒るという事がありましたね。

 

2に続きます。